JOURNAL

BEAMS 50th

2026.04.07

 

 

 

 

矢口です。

 

「BEAMS 50th」

1976年創業、現社長設楽洋の父・悦三はダンボール工場を営んでいた。1975年にオイルショックで紙の値段が高騰しダンボール工場の経営が悪化。若者向けのファッションの店をしたいと洋に提案、アメリカ西海岸をベースとしたカジュアルな商品構成。店の名前は父親の会社「新光株式会社」の一文字「光」をとってビームスと名付けた。父・悦三が1975年頃に新宿の飲み屋で知り合った人物に紹介された重松理(後のユナイテッドアローズ創業者・名誉会長)を店長として1976年、原宿に6坪の洋品店「AMERICAN LIFE SHOP BEAMS」を開業させた。同店はアメリカ西海岸のカジュアル衣料を直輸入して大成功を収め、1977年には2号店を渋谷の通称「ファイヤー通り」に出店している。創業期の同社を支えたのは、平凡出版(現マガジンハウス)との深い繋がりだった。設楽悦三の息子である設楽洋(現ビームス社長)はこの当時、電通に勤務していたが、慶應義塾大の学生であった頃に知り合った小黒一三が平凡出版に勤務していたことから、同社は小黒を通して当時『ポパイ』の編集者だった石川次郎、松山猛、北村勝彦への人脈を築いた。『ポパイ』編集部はビームスにアメリカのファッションの情報を提供し、ビームスがそれを買い付け、『ポパイ』誌面ではそれらのファッションを紹介するというサイクルが成立し、ビームス躍進の原動力となった。1983年、設楽洋は設楽悦三の病気を機に電通からビームスに移り、専務取締役としてマーケティングを担当した。一方、創業期からバイヤーを務めていた重松理は常務取締役としてバイヤーたちを統轄し新たなレーベルを次々に開発していった。この時期、ビームスの会社の規模は大きく成長し、1989年重松理を始めとする役職付社員30人程度が一斉に辞表を提出。大手アパレル企業であるワールドをスポンサーに付けて新たにビームスと競合するセレクトショップ「ユナイテッドアローズ」を創業した。重松理らの大量離脱によってビームスは大混乱に陥ったが、松山両三、南馬越一義ら若いバイヤーを抜擢して苦境を脱した。また世界文化社の『ビギン』との間に密接な関係を構築し、同誌が頻繁にビームスの取り扱い商品を紹介したことでビームスは更に売り上げを増やしていった。 なお、重松理らがビームスから独立してユナイテッドアローズを設立したことをきっかけに設楽洋氏と重松理氏との関係が断絶されたわけではなく、メディアで対談を行ってお互いのことを褒め合うなど、お互いに尊敬し合っていて今でも良好な友人関係が続いてる事が判明している。

 

日本にセレクトショップと言う概念を齎した草分け、ビームスが今年50周年を迎える。

Wikipediaより抜粋した同社の社史、創業から10数年の出来事に目を通しなんと無し胸に迫るものがあった。

 

18歳で東京の大学に上京してより20代の会社員時代、同社を含めその当時のセレクトショップに足繁く通っていた記憶がある。

その記憶は、私がセレクトショップを始めた時の何かしらの参考要素となって、23年間セレクトショップを続けてこれた感覚の良質な原体験的であった。

 

23年前にお店を始めた後、同社を含め大手セレクトショップに入店する機会は年々少なくなった、それはセレクトアイテム比率が下がり自社ブランドアイテム大半の形態へシフトしてしまったから。

それだけ、私が10代後半20代で拝見した御三家を含むセレクトショップは「自分の知らない魅力的なアイテム」があり楽しく、多大な影響を受けた。

 

その時代の「自分の知らない魅力的なアイテム」に出会う体験から、その感覚を私感性に置き換えてお店づくりをして来れたし、これからもして行きたい。

情報溢れるこの時代ではナンセンスではありますが、出来る限り”お客様の知識にある欲しい物リスト”に入っていない、初めてお店で知って触れて着ていただいた、情報に誘引されないご自身の”イイね”のお気持ちでワードローブに加えていただけるようなお店づくりを。

 

ビームス50周年の記事に接し、これまでの当店の有り様はその瞬間まだ情報少ないブランド様の成長と重ねさせていただき今が在るのだと、思い返す切っ掛けをいただいた。

再び自分に言い聞かせる、あと7年14シーズンのANOTHER LOUNGEバイイングは、まだ知る方少ない新進気鋭ブランド様の展示会も積極的に拝見しようと。

 

「BEAMS 50th」

添付した40周年に作られた動画は、今拝見しても富に秀逸で在る。