JOURNAL

街道の街

2025.09.19

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

矢口です。

 

写真は、昨日の定休日に歩いた松本市四賀地区(旧四賀村)。

松本市・安曇野市から20分くらい車を走らせると到着する、四方を山に囲まれた街。

 

古い昔から松本市と長野市を結ぶ善光寺街道と、松本市と上田市を結ぶ保福寺街道が通り、宿場が置かれ人々の往来で賑わった街。

今も往時の姿を感じられる街並みが残り、また自然の豊かさと古い街並みに惹かれ著名なアーティストさんがたくさん移り住み、面白いコミニティが形成されつつある松本市の面白いスポット。

 

まずは、善光寺街道会田宿にアルトコロニ,デザイン株式会社さんが昨年スタートされたスペース「arutokoroni」を確認。

古き街並みが続く街道の古谷を改装した広々の空間、磁場の方と全国から集まった移住者さんたちの人と情報の交流の場として、これからもこの街になくてはならない場となりそう。

 

続いては松本市四賀化石館、入場無料に驚く。

さらに、主たる展示物であるシガマッコウクジラの骨格標本を見て獰猛な海洋恐竜かと思っていたらば、やたら可愛い実物イラストが隣にあったギャップ。

 

化石館から少し進むと今の残る保福寺宿の本陣の建物、見事!

今では本陣はホテル施設に、別館はカフェになっている、どちらも趣深い。

 

この日、最後に目的地は本陣近く、保福寺宿・保福寺街道の名前にもなっている名刹「保福寺」

悠久の歴史を刻む保福寺に参拝したく歩いた街ブラ、仁王門から急峻な階段を登り、庭木手入れが美しく整えられている境内を通り、大きさも彫刻も非常に立派な本堂へ、見事!

 

ご本尊 木造千手観音立像は拝見できませんでしたが、山道の旅の安全を見守った名刹は今も尚ご住職さまご家族が守られ大切に後世に継承され行く様子を拝見し感銘。

私も、家族の安全をお祈りし帰路についた。

 

松本市四賀地区、初めて車と歩きでゆっくり散策いたしましたが、私の想像よりも広いエリアに古の街道の名残を感じられる場所。

また、新旧の住人によるムーブメントの緩やかな始まり気配を感じられる、とてものどかな場所でございました。

 

「善光寺西街道(北国西脇往還)」

善光寺西街道は中山道の洗馬宿(長野県塩尻市:中山道31番目の宿場町)と善光寺、北国街道の丹波島宿(長野県長野市)を結ぶ街道として慶長19年(1614)、当時の松本城主小笠原秀政が整備しました。松本藩の城下町と北国街道、中山道とを結ぶ経済的に利用されただけでなく「一生に一度は参りたい」とまで言われた善光寺の参拝で多くの老若男女、善男善女が利用した信仰の道です。正式には北国西往還と称しますが、一般的には善光寺街道や善光寺西街道、北国西街道、などと呼ばれています。近代以降は主要街道から外れた為、稲荷山宿(長野県千曲市)や麻績宿(長野県麻績村)などの宿場町では良好な町並みを有している他、茶屋跡や石碑、石仏などの史跡も点在し当時の信仰の道の面影を随所に見る事が出来ます。

「会田宿」
会田宿(長野県松本市)は中世、海野氏の一族である会田氏の居城、虚空蔵山城の城下町として発生した町です。戦国時代の天正9年(1581)の小笠原貞慶の侵攻により会田氏が滅ぼされると衰微しましたが、江戸時代に入り善光寺西街道(北国西往還)が開削されると宿場町として整備され再び活況(文久3年時:本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒、木賃宿4軒、茶屋3軒、馬牛宿3軒)しました。明治時代以降は近代交通からは離れた事で衰微しましたが街道沿いには店蔵や塗屋造りの建物が軒を連ね往時の繁栄が窺えます。

「保福寺街道」
保福寺街道は律令制下で整備された東山道と略同じ経路とされます。奈良時代当初は信濃国の中心は上田市周辺にあったとされ、国府の位置は断定されていませんが上田市神科地区に条里制の跡が発見されている事から推定地とされています。又、国分寺と国分尼寺の位置は明白で「信濃国分寺跡」として国指定史跡に指定され、信濃総社とされる科野大宮社が鎮座しています。その後、国府は松本市周辺に移され、こちらも位置は明確ではありませんが松本市神林と今井が推定地とされ、信濃国総社も伊和神社に移ったとされます。その経緯から、松本市と上田市間の東山道は人や物資の往来も頻繁で重要視されていたと思われます。松本市と上田市の間には江戸時代の街道制度の宿場町にあたる「駅」が2箇所設けられ、錦織駅(推定地:旧四賀村の錦部)と浦野駅(推定地:青木村の岡石、大法寺は浦野駅の寺として創建されたと推定)に駅馬が15疋置かれていた事が延喜式で記載されています。中世に入ると松本には信濃守護所が設けられ、上田では塩田平(上田市)に本拠を持つ塩田北条氏によって数多くの神社仏閣が建てられ、信州の鎌倉と呼ばれました。戦国時代には軍事道としても利用され、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には上田城攻めをする徳川秀忠に援護する為、松本城の城主石川玄蕃頭は2,400の兵を東山道(保福寺街道)を利用し上田に向わせています。江戸時代に入ると保福寺街道は松本藩主の参勤交代や松本藩の江戸城米搬出の経路(上田城の城下で北国街道、追分宿で中山道に入り江戸に向った)として整備され、松本藩と上田藩の藩境にあった保福寺峠を越える事に因み保福寺街道と呼ばれるようになりました。保福寺街道の経路は松本藩の本城である松本城(長野県松本市)の城下町から岡田宿までは善光寺西街道と同じで、岡田宿の北側で分岐して保福寺宿に入り保福寺峠、奈良本宿、上田城の城下に至ります。

「保福寺宿」
保福寺宿は保福寺街道の宿場町である共に名刹である保福寺の門前町だった町で、創建は平安時代とも云われ、当初は真言宗で山中に境内を構えていましたが、後に現在地に移され文亀2年(1502)に曹洞宗に改宗しています。境内の象徴である仁王門は宝暦9年(1759)に建てられた古建築で入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚単層門、本堂には松本市指定重要文化財に指定されている本尊木造千手観音立像(鎌倉時代製作、檜材、寄木造)が安置されています。保福寺宿は保福寺街道沿いの松本藩内では最大の宿場町で交通の要衝でもあった為、東端には藩の口番所が設けられ、物資の集積場、中継地として問屋場も設けられていました。本陣は代々小沢家が勤め、現在でも重厚な屋敷を構え保福寺街道の宿場町の町並みの景観に大きく寄与しています。

(長野県:歴史・観光・見所さんより転載)